Nameless Birds
番外 天敵   -Stardust-

番外 天敵の前編四
番外 天敵の前編二
作品



前編三/七

「松本…て、あの良順先生のことですか?」
  非公式ながら沖田も何度か拝顔したことのある、見るからに豪放磊落、良くも悪くも型破りと評判の奥医師の名を口にする。そうして手元の書の表紙を眺め、中の数頁を捲ると、
「 ―― 厚生新編…わ、何だか難しそうな本ですね。…へえ…和訳書みたいですけど、私にはさっぱりだ…医術か何かの本ですか?」
と、直ぐに降参の意を露にした。
「ええ、これは、 ―― そうですね、蘭方の薬草学の巻ですが…」
  沖田のしかめ面に苦笑し、山崎は沖田にも馴染めそうな、別の何冊かの絵入り頁を布団の上に広げて見せる。
「他にも色々ありますよ。異国の植物や動物、歴史とか…例えばこれなどは、南蛮料理や食文化について書かれています」
  山崎の説明によると、厚生新編とは、西洋の医学・薬学は勿論、化学や物理、天文等の自然科学、地理、文化史や風俗に至るまで、あらゆる分野を網羅して記載、編纂された書籍集であるらしかった。
「へえ…まあ、良順先生は、ああいう感じだから、何に興味をお持ちでも不思議はない気がするけど…それより私には、先生と山崎さんが、書物の遣り取りをされる間柄だってことの方が、余程面白いですねえ」
  松本良順といえば、天下の将軍典医、幕府医学所頭取の肩書きを持ちながら、格式や権威を厄介な御荷物と疎んじ、およそ医師職には似つかわしくない数多の武勇伝を有する人物として、世事や流言に疎い沖田ですら聞き及んでいる。後に新選組の重要な後ろ楯となる異色の幕臣と、池田屋の変で働きが認められたとは言え、幕僚組織の末端も末端に位置する新選組の、しかもたかだか一隊士との接点など、どうにも想定し難いのは道理だ。
  尤も、沖田の興味は双方の身分不相応さではなく、個性の喰い合わせの妙にあるので、ニアミスの不自然さには気を留めない。
  只々、古びた書物の山を眺め、感嘆の眼差を山崎へ向ける。
「それにしても、随分と沢山ありますねえ…これ全部読み終えるのに、一体どのくらいかかるんですか?」
「さあ、どうでしょう。お借りしているとはいえ、先生の私物ではないので、早く片付けてしまいたいのですが」
  何でも、松本が顔パスで立ち入っている蛮書御用方の書庫内で、埃を被っているところを見付け、永らく誰も手を付けていないのならば、と無断で持ち出したものらしい。
「?無断で?それって、まずくないんですか?」
「まあ、書棚の片隅に忘れ去られていたからといって、対外交政策の一資料には違いありませんからね。仮に、先生を良く思わない幕臣連中の耳にでも入れば、それこそ国家機密の漏洩とか何とか、幾らでも辞職口実の叩き台に仕立て上げられるのでしょうが。その時は、先生の技量で切り抜けて頂くしかありません」
  だが松本に限り、そんな腑抜けた輩に尻尾を掴ませるような真似はしない。大丈夫でしょう、あの方ならば、と言い切る山崎の余裕と冷淡に触れ、
「ならいいですけど…それにしたって、山崎さんは何時も忙しそうにされてるから、折角こんなに借りても、読む暇なんか無いんじゃありませんか?」
  それでも今一つ安堵し切れない、沖田の切々とした物言いに、山崎は何処までも苦笑してみせる。
「そんなことはありませんよ。今もこうして何冊か読み終えることが出来ましたし。尤も今回は君のお陰ですが」
「私の?」
「自室にいると、どうしても残務処理の方が気になって、特に急ぎの仕事でなくとも、そちらを優先してしまいますからね。なかなか書物を手に取らないし、取ったとしても捗らない」
  ここならば余計な雑念は入らない上、片手間に君を見張ることも出来る。君を利用しているようで、申し訳ないですがね。
「そんな、申し訳ないだなんて、山崎さんに言われても困りますよ」
「そうですか、それは ―― 」
  申し訳ない、と続けようとして語を堪(こら)えた山崎と眼が合い、二人は同時に笑った。

おまけ(ちょこっと解説)


番外 天敵の前編四
番外 天敵の前編二
作品