Nameless Birds
番外 天敵   -Stardust-

番外 天敵の前編五
番外 天敵の前編三
作品



前編四/七

「 ―― それで、金米糖を買って欲しいなんて、誰にも言い出せませんからね、女の子の好むお菓子みたいで、恥ずかしくて。姉に強請ったりしようものなら、武士の子が口にするようなものではありません、なんて小言で返されるのがオチだし。かといって、試衛館へも通い始めて間もない頃だから、近藤先生や井上さんには勿論、頼めない。子供の私にとっては未だ、近寄り難い、ちょっと怖そうな大人の人達でしたから。手持ちのお小遣いでは到底足りないし、で、仕方なく、駄菓子屋の前で、ずっと途方に暮れてたんです」
  ここで沖田は一呼吸置き、山崎が用意した白湯で喉を湿らせる。
「でもそれは、先刻見た夢の中での話なんですけどね」
  沖田はそう言って、両手に包み込んだ湯呑の底へ、取り零(こぼ)した夢の残骸をさらうかのように視線を落とした。
「夢?」
「ええ。実際に、そんな出来事なんて無かったんです、私が覚えてる限りでは」
「…」
「多分、私がこうして寝込む前に、近所の子達に金米糖を買ってあげる約束をしてて、未だに果たせないでいるもんだから、心の何処かで気になって、あんな夢を見たんじゃないかなあ…あ、でも昔、近藤先生達に近寄り難かったっていうのは本当ですよ。そう言えば、こんな事もあったんです ―― 」
  ―― こうして、他愛なく改竄(かいざん)された記憶をはめ込んだ夢を呼び水とし、沖田が山崎相手に掛かる迷惑を省みず、夜話(よばなし)を手繰り聞かせ始めてから、どれほど時が経過したか。
  我ながら馬鹿な、幼稚な振舞いをしていると自覚はしていたが、一瞬でも不安の到来を先送りしたい願望、一時でも長く他人を側に引き留めておきたい欲求が、沖田の中の我儘を押し通している。山崎ならば、自分のそんな甘えを許してくれるだろう、という無自覚の過信も少なからずあった。実際、山崎は要所々々で相槌を打ち、手短で的確な感想を合間に差し挟む以外、沖田の言葉に黙って耳を傾けている。眠気や疲労の素振りを僅かも見せず、これ以上望めないであろう理想的な聞き役に徹していた。
  やがて、宵の密やかで静寂な空気に追い立てられ、追い付かれぬよう際限無く言葉を紡いでいくうちに、沖田の話は幼少時の思い出から、試衛館で巻き起こった小事件や、瑣末な日常にまで及んでいく。丑三つを過ぎる頃には、山崎にも馴染みのある、永倉や原田といった食客連中の名までもが、話題の本筋に傾(なだ)れ込む始末だった。
  だが、次から次へと過去の描写が口から溢れ出るのにも関わらず、何故か情景は話す当人の心に蘇らない。宵が深まれば深まる程、他人から聞いた話を、口伝で山崎に預け伝えているかのような虚しさが、沖田の心の洞(うろ)を広げていく。遂には、
「沖田君、君は少々、喋り過ぎるし、笑い過ぎる」
と、流石に見かねたのか、苦笑する山崎の側が水を差すに至った。
「!?すみませんっ…」
「…」
  突然、虚しさに歯止めを掛けられ、沖田は慌てて謝罪を口にする。
「すみません、山崎さんとこうして話す機会なんて、今まで無かったし、これからもあると限らないから、つい…」
  我に返ったように呟いた瞬間、原因を山崎に転嫁している己の言動に改めて気付き、沖田は再度、俯いた。度重なる自己嫌悪の余り、山崎の顔を正視出来ないまま、いっそ、辟易するなり戒めるなりされた方が有り難い、と相手の出方を待つ。
  沖田の語が途切れた後、屋外の草木の寝息、石下の虫の溜息といった微かな生の気配の紛れる隙を一分も見せない沈黙が訪れる。鉛のような無音は、光の届かない沼底を彷彿とさせ、再び、水の中に引き戻されたかの遮断感が、沖田の胸中に去来する。
「…」
  或いは、このまま浮上しない意識と病魔を抱え込んだ身体毎、水底へ放り沈めるのも妙案かもしれない。宵闇の中ならば、見上げた水面の向こう側に在る、光や風に手を伸ばす悪足掻きも出来まいし、斎藤のような身近な男にさえ嫉妬する未熟さに、怯える必要もない。
  と、その時。不意に、
「沖田君」
  失礼、との断りに沖田が顔を上げるより先に、山崎は寝巻の背中を掌でとんと打った。
「!?…」
  強くはないが、予期せぬ衝撃に対する当然の反応として、沖田は激しく咳き込み、胸を押さえた。半身を屈め、肩で忙しく息をしつつ、咳の発作が静まるのを待つ。途中、顔を上げ、訳が解らないと泪眼で山崎を見遣った。
  その沖田の無言の非難に動じず、山崎は言った。
「無意味に呼吸を止めないように。まさかこれから、水の中に潜るつもりでもありますまい」
「!?」
  何気ない山崎の言葉が、瞬時に沖田の喉を干上がらせる。
「…」
「 ―― さて、今度は私が一つ、話をしましょう。君にばかり喋らせていたのでは気の毒だ」
  死へ傅(かしず)く性根を見透かされた、との思いに囚われる沖田に対し、山崎は何食わぬ顔で、横になるよう促した。
  今まで当然のように受け入れていた、山崎の一貫して穏やかな様が、ここへきて沖田の中で得体の知れなさへと変わっていく。
  何故、この人は何時も微笑っているんだろう。
「…山崎さんが、ですか…?」
「そうです。まあ、大して面白くないかもしれません。眠くなったら、そのまま寝てしまって構いませんよ」
  これは以前に、知り合いの医者から聞いた話ですが、と前置き、山崎は語り始めた。


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