Nameless Birds
第三章   -It's A Sin To Tell A Lie-

第三章の六
第三章の四
作品



五/七

「…どうも」
  一瞬、山崎がわざわざ行動を見張らせていたか、と考えを巡らせるが、ならば最後の最後で話し掛けて暴露することもないか、と思い直す。
  斎藤の警戒を他所に、島田は、奇遇ですねえ、お隣いいですか、と、斎藤の返事を待たず、傍らにヨイショと座り込む。伏見までの退屈な船道中、話し相手ができたと素直に喜んでいる風情だ。
「ちょっと失礼しますよ」
  監察にしては湿度の低そうな、やたらと愛想のいい大柄な好漢は、早速、懐から取り出した包みを膝の上に広げ、握り飯など頬張り始めた。
「…よくもまあ、そんなに食えるもんだ…船酔いなんかとは無縁のクチでしょう、あんた」
  見ているこちらが酔いそうになるな、と呆れる斎藤に、
「いかにも。どうです、斎藤さんも一つ」
  島田は握り飯を差し出す。斎藤は、いや、結構と辞退し、身が船上に在る経緯を尋ねた。
「そりゃ仕事ですよ、仕事」
  聞けば、山崎の代理として大阪へ出張した、その帰りだという。
「代理?」
「ええ。今度、大阪に駐屯所を置くことが決定しましてね。幾つか設置場所の候補が挙がってまして、今日はその下見ですな。いやあ、この炎天下ん中を歩き回るなんてのは、こたえますなあ、流石に」
「そいつは御苦労なことでした」
「池田屋の件の直後で、新選組が勢い付いている今、市中は倒幕派の連中にとって、ますます居心地が悪くなりましたからね、必然こっちに流れてくるだろう、てえのが、上の見解みたいです」
  ああ、確かにそうだったと、胸の内で合いの手を打つ斎藤。
「 ―― それで、良さげな場所は見付かったんで?」
「え、うーん、まあ、そうなんですが」
「?歯切れが悪いですな」
  島田は頭を掻き、握り飯の最後の一つを口の中へ放り込んだ。
「ハハ…どうも…私は交渉事には…向いていねえらしくて…はい、ごちそうさん。第一候補である万福寺の、住職の気分を害してしまったんですなあ、実は。なかなか、山崎さんのようには上手く口説けねえ。住職の方でも、私じゃ話にならん、山崎さんを連れて来いと、そりゃもうエラい剣幕で…」
  いやはや、参りましたわ、と竹筒の水で、食後の喉を潤す。
「へえ…そんな面倒な交渉事、何で山崎さん本人が出向かなかったんです?」
「今日はあの人、非番に当たってますから。今のところ、そう大きな探索(やま)を抱えているわけでもありませんしね。休める時に休んでおいてもらわないと」
  島田の口調から、どうやら監察方内でも、山崎の仕事中毒には、少なからず手を焼いている事情が覗える。
「…成程」
  成程。仕事で身動き取れないというのは、方便か。
  となると、この一両日中の山崎の行動は ――
「 ―― !?」
  そうか。ふと、斎藤はある事に思い立ち、何気なく己の懐に手を入れ、探ってみる。
「!?」
  指先の感触に、斎藤は会心の笑みを浮かべた。これで話の辻褄が合う。
  前述訂正。
  騙されていたのは、斎藤か公儀か、何方かではなく、
「…両方だ」

「何だ、まだいたの」
  帰還した女の声で、うたた寝から眼が覚める。
「…あれ?」
  何時の間にか、退屈した猫は斎藤の手を離れ、部屋の隅で丸くなっていた。垂れ込める雨雲の所為だけではない、薄闇も一段濃くなっている。
「小降りになってるから、今のうちに帰った方がいいんじゃないの」
  全く、何しに来たんだか、と、女は灯明皿に小さな火を盛る。今まで寝てたんなら、留守番にも何にもならないじゃないの。
「…また来る」
  それだけ言うと、斎藤は大儀そうに胡座を解き、部屋を後にする。
「…」
  残された女は、今度は何に嫉妬すればいいのか対象を見失ったまま、ふと猫を抱き上げた。
「…あ」
  その時、身を捩って女の手から逃れようとする雌猫から、伽羅の移り香が立ち上り、女は思わず手を放した。
「…」
  闇に溶け、薄墨を纏った庭の花香と、顔も名前も知らない女の気配が漂い、巧妙に混ざり合う。
  ―― 珍客逗留。女は、縁側で文字通り眼を光らせる雌猫に宿る、もう一人の女に問い掛ける。
「 ―― そんなにいいもんかしらねえ…」
  留客雨(りゅうかくう)には程遠い、無音、細かで密な小糠振りの似合う男なんて。

第三章の六
第三章の四
作品