Nameless Birds
第一章   -Moon River-

第一章の五
第一章の三
作品



四/七

  夕暮れ時、巡察からの帰営途中のことである。
  日が落ちると少しは凌ぎ易くなるな、等と閑談しながら同組の隊士数名と連れ立って歩く。四条大橋を渡り、夕餉の匂いが其処彼処から漂う町並みに差し掛かったところ、背後で不意に、
「阿呆んだらっ!二度と顔出すんじゃねえっ!」
  一同が振り向くと同時に、目と鼻の先程の距離で一人の薬売りが、強烈な罵声と桶一杯の水を浴びせられ、長屋の一角から転がり出てくるのが見えた。道を行き交う人々も何事かと見やりはするが、直ぐに視線を逸らし歩を速める。畜生扱いを受けた男が、地べたに尻餅を付いたまま呆然としているのへ、只一人斎藤が近付き、手を差し出す。
「大丈夫か」
  傍に寄ってから、初めてその男が山崎であることに気付いた。
「へえ、いえ、お構いなく…」
  お武家さんの御手を煩わせるわけには、と自前で立ち上がり、懐の手拭で顔を拭く。その手拭の表面に顔料が写っているのが何気に見え、随分と念の入った変装だと、内心、斎藤は舌を巻いた。
「災難だったな」
「…」
  ぴたりと閉じられた戸口の内から、狂ったように咽び泣く女の声が漏れ聞こえてくる。先程の罵声の主、どうやら夫らしき人物の声が女を一喝したが、嗚咽は逆に激しさを増すばかりだった。
  山崎は内情には触れず、やたら飄々と、
「…ま、こんなん序の口ですわ。中にはもっとえげつない真似さらすモンもいますよって。商いは水物、ええ流れの時もあれば、流れに乗り切れんと水ン中投げ出される時もある。今日の流れはイマイチやな。ま、明日挽回させてもらいますわ」
  そういう問題じゃなかろう、とお互い腹の中で思っていることは、何となく暗がり越しに通じたが、と言って何をどうすることもできない。山崎は、ほな、失礼しますわ、と斎藤の脇を擦り抜け、夕闇の雑踏の中に消えた。
  その晩、斎藤が自室で刀の手入れをしていると、
「よろしいですか」
と、山崎が訪ねて来た。平素の小袖に袴の出で立ちで、日焼けを装うドウランも落とし、上方訛りも無い。斎藤は拭紙を咥えたまま、どうぞと眼線で中へ促した。刀を鞘に収め、
「茶でもお持ちしましょう」
「お構いなく」
「そうですか」
  一旦は腰を浮かせたものの、座り直す。と、
「ああ、そうだ、良いのが手に入りましてね」
  再び腰を上げ、襖の奥から徳利を取り出した。
「懇意にしている古道具屋の主人が播磨出身でしてね。実家の酒蔵からこいつが送られてくる度、こうして御相伴に与れるというわけで」
  湯呑で失礼しますよ、と静かに酒を注ぐ。
「いけぬクチではないでしょう」
  どうぞ、と有無を言わさず供され、山崎も観念してもてなしを受けた。
  暫くの間、二人は言葉を交わすでもなく、黙って名酒を吟味していた。肴はこの沈黙であり、夏の宵の空気であり、灯明の灯りである。このように気兼ねなく、無言を決め込んで他人と杯を酌み交わすことなど、久しくなかったので、斎藤は少々、新鮮な心持ちで向き合っていた。
  考えてみれば妙な展開である。山崎とは夏風邪の一件まで、面識こそあれ、私的には言葉を交わしたことなど殆ど無かったというのに。両人共、自ら進んで他人と交流を持つタイプでないからだろう。
  山崎が、いけるクチ、どころの話でないのは、最初の一献から明々白々だった。
  徳利から湯呑へ、注ぐのと同じ速度で、とくとくと湯呑から喉へ淀みなく流し込む。まさしく笊で水を受けるようなものだ、酒としても飲まれ甲斐が無いだろう、と斎藤は半ば感心し眺める。
  危うく寛ぎかけたところで、山崎の方が酒を飲みに来たのではないことを思い出させた。湯呑を置き、淡々と報告口調で語り始める。
「諸国の不貞浪士が密会を繰り返しているという情報がもたらされてから討ち入るまで、私が池田屋に潜入していたことは御存知でしょう」
「まあ、話には」
「一月程、薬種の行商人として逗留していましたが、その間怪しまれぬよう、実際に薬を上方で仕入れ、洛中を探索がてら売り歩いていました。その薬の一部にどうやら、阿片が混入していたらしい」
  斎藤の杯を傾ける手が止まった。

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