Nameless Birds
第一章   -Moon River-

第一章の三
第一章の一
作品



二/七

  原田に言われた通り、斎藤はふらつく身体を押して監察方の部屋へ赴いた。
  監察は見廻りが主の他の隊士連と異なり、副長直轄の独立した諜報機関である。その為、監察室も屯所内で別途に設けられており、斎藤はこれまで殆どその部屋に近付くことはなかった。一つには機会に恵まれなかったのもあるが、そもそも監察方の一種独特の空気 ―― 清濁練り込まれた情報が渦巻く、陰鬱で閉鎖的なイメージ ―― が性に合わないというのが、理由の九割九分を占めている。何しろ、あの土方副長が巣窟の元締めなのだ、こんな緊急事態でもない限り、そんな胡乱な領域に足を踏み入れたくない、というのが本音だが、まあそうも言ってはいられない。
「風邪薬ですか。ありますよ」
  応対に出た監察の一人、山崎は慣れているふうで、事務的に斎藤を部屋に通した。恐らく薬の無心に来る隊士が絶えないのだろう、山崎の表情に、うんざりした感が覗えないでもなかったが、意識朦朧の一歩手前である斎藤に、恐縮する余裕はなかった。
  山崎が部屋の隅に置いてある薬種行李の中を改めている間、斎藤は所在無く室内を眺めた。他の監察達は出払っており、山崎の文机の上だけが積まれた書類の山に占領されている。これ全部に目を通すつもりなのか、御苦労なことだ、と、他人事だから思えた。確かに、こう隊士が来る度に対応していては、何時まで経っても仕事は片付くまい。しかも相手は大抵、病人か怪我人だろうから、無下に扱うわけにもいかないのだろう。
  やがて四、五の小さな紙包みが、斎藤の前に差し出された。
「二日分出しておきますので、食後に服用して下さい。こじらせると厄介ですので、なるべく安静にしておいた方がいいでしょう。ここで飲んで行かれますか」
  はあ、と斎藤が頷くのを確認するなり、山崎はさっさと席を立ち、湯呑に白湯を汲んで戻って来た。この手際の良さ、慇懃な物言いが、早く出て行け、という苛立ちの表れであることくらいは、斎藤にも伝わった。
「どうぞ」
  そのくせ、飲み易い人肌温度の白湯を用意する心遣いは怠らない。どうにもよく解らない男だ。
「…こりゃどーも」
と、斎藤が包みを開き、口の中へ粉を落とし込もうとした時である。
「!?ちょっと待って下さい」
  山崎が僅かに狼狽した声で、斎藤の動作を制した。
「…は?」
「失礼」
  素早く斎藤の手から薬を取り上げると、匂いを確かめ、眼の高さで暫く眺める。
「 ―― 申し訳ありません、私の失態です。これは健胃薬ですね、まあ飲んだところでどうということもないのですが…このところの暑気で、集中力が散漫になってしまっているようです。お待ち下さい、ただ今…」
と、何事も無かったかのように別の薬を行李から取り出し、そちらを斎藤に服用させた。
  味も素っ気もない、御大事に、の言葉に送り出された後、自室に戻った斎藤は布団を敷き、床に就きながら、ふと、あんな男でも暑さ惚けをするものか、と思った。
  薬屋が薬を取り違える。
  例えば武士が討ち入り先で、乱闘の最中、誤って味方に斬り付けてしまうようなものか。
「…何か違うな」
  熱に浮かされた頭では、ロクな例えも考えも捻り出せそうにない。とりあえず、今は夏風邪退治が優先だな、と斎藤は眼を閉じた。

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