Nameless Birds
第一章   -Moon River-

第一章の二
作品



一/七

  斎藤一が山崎蒸という男の行動を、何とはなく眼の端で追うようになったきっかけは、些細なものだった。
  元治元年七月。祇園祭の囃子が蝉時雨に置き換わって久しく、腰の据わった京の夏も佳境に入る時節。
  その日、斎藤が馴染みの妓の元から屯所へ帰還したのは、もう日も高く、足元の影が日中最も短くなろうかという刻限だった。この数日、変則的に宿直続きだったのと、昨晩、廓を訪れたのが夜更けだったのとが災いし、うっかり寝過ごしてしまったのだ。
「…」
  鉛のように重い瞼を開けると、横に居た筈の妓の姿はとうに無い。文字通り、白日の下に曝け出された派手な夜具や調度類の、色褪せた現実感が虚しさに拍車を掛ける。独りならば尚更だ。
「…起こしていくもんじゃないかね、普通…」
  身を起こし、のろのろと着物を身に付けると、斎藤は人目も気にせず往来に出た。黄色い光に眼を瞬かせながら、閑散とした昼の色街を抜ける。
  この男は、無理が一番身体に毒だというのが信条で、この度も女に会うために無理に時間を割いたつもりはない。隊務にも殊更、入れ込んでいるつもりもない。ないのだが、心はそうでも身体は正直で、この半刻後、疲労が引き金となり、斎藤は夏風邪で寝込むという形でツケを払う羽目になる。
  さて、未だ完全に覚醒しないまま、さして陽射しを避ける努力もせず歩いたせいだろう、屯所に辿り着く頃になって、斎藤は急に喉の渇きが尋常でないことに気付いた。そこで先ず、裏庭の井戸端へ直行したが、剣術の稽古を終えた隊士連中で混み合っている。仕方なく進路を変え、裏手の炊事場へ向かった。
  勝手口を潜ると、薄暗い土間に、炎天下での市中見廻りから戻って来たばかりと思しき隊士が数名、腰を下ろし休んでいた。内一人が、江戸での食客時代から付き合いのある原田左之助だった為、斎藤は目顔で挨拶し、瓶から柄杓で水を汲むと、漸く喉の渇きを癒した。
「ああ、そういや斎藤、先刻(さっき)永倉がお前を探してたぞ」
  不意に原田が、寛げた襟元に団扇で風を送りながら言った。
「永倉が?」
「おう」
「さて…」
  何だろう。思い当たる節が無い。
「あれじゃないか?ほれ、今、稽古付けるヤツが足らんので、非番の時くらい道場に顔出せってことじゃないか?」
「あ…」
  思い出した。昨日、まさに原田の台詞と殆ど同じそれを、永倉の口から聞いた気がする。しかも承諾した気さえする。
  そう原田に言うと、
「何だそりゃ。暑さ惚けかよ」
  お前らしくねえな、と笑われてしまった。
「あいつ、すっぽかされんのとか嫌いだからよ、早く行って、謝るなり稽古付けるなりしといた方がいいぜ?」
  原田の忠告に、斎藤はそうだな、と素直に同意した。
  確かに。人の話を右から左へ聞き流しているつもりはないのだが、うだるような熱気が昼夜を問わず身に纏わりつく所為か、頭が今ひとつ上手く機能していないのかもしれない。五感全てが薄い膜で覆われた様な錯覚さえ起こる。否、薄い膜なんてものじゃない、今はもっとこう、脳の奥の大事な部分が、厚い綿か何かですっぽり包まれているような…
「…い、おい、斎藤、何ボーッと突っ立ってんだ」
「!?」
  原田の声で我に返る。柄杓を握り締めたまま、視界が普段より狭まっていることに、遅ればせながら気付く。
「…」
  頭痛の気配もしてきた。どうも常が病気とは無縁なだけに、病の徴候に疎いらしい。認識した途端、悪寒が背筋を走り抜ける。
「…」
  いよいよ、本格的にまずいかもしれない。
「そりゃ夏風邪だな。監察方に、池田屋ん時からこっち、仕入れた薬が余ってるらしいからよ、そいつ飲んで休んでろよ。沖田、藤堂と続いてお前まで使いモンにならなくなった日にゃあ、永倉のヤツ、切れちまうからな。ま、早いとこ治してくれや」

第一章の二
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