Nameless Birds
番外 郷愁   -You And The Night And The Music-

番外 郷愁の二
作品



一/三
   目には青葉山ほゝときすはつ松魚(かつお)    山口素堂

  お待ちどうさま、と女が卓に肴を数品、配する段になって、
「?何だこりゃ?」
と、永倉は怪訝な声を上げ、内の一皿を指差した。向かいに座する斎藤は、ははあ、と、事を解したが、斜目に表情を緩めただけで、盃を口元に宛(あて)がったまま片肘つき、成行きを見ている。
「?へえ、鰹です。お頼みになりましたやろ?」
  女は盆を両腕に抱え持ち、すまして答える。
「ああ、いや、頼んだには頼んだが…こいつはたたきじゃねえか」
「へえ、それがどうか?」
「どうか…って、こん時期、何が悲しゅうて焼いた鰹を食わなきゃなんねんだい。勿体ねえなあ」
  頃は四月初旬。鰹の初漁を迎えたばかりである。当然、刺身が出てくるものと決めてかかっていただけに、永倉のショックは殊更大きい。
  そもそも、隊務退(ひ)けて後、永倉が斎藤引き連れ、初物目当てに居酒屋の暖簾を潜るに至った経緯は、至極単純なものだった。遡ること数刻前の昼日中(ひるひなか)、屯所付道場で行われた斎藤との模範試合で、珍しく永倉が先んじて二本落とした。真剣ならいざ知らず、道場稽古では常なら七、八割方勝てる相手に、こうもあっさり打ち敗けたとあっては永倉、腹の虫が治まらなかったらしい。
  ―― こいつはあれだ、京へ上ってからこっち、とんと初物も拝んでねんじゃあ、調子が出ねえのも道理だぜ ―― との妙なこじつけで、いざ鰹を胃の腑に収めてから(試合を)仕切り直さんと豪語し、あまり気乗りしなさそうな斎藤の首根っこを引っ掴むと、勇んで屯所を後にした次第。
  尤も、出掛ける二人の背を見送りながら、
『でもよう、斎藤まで鰹食ったら、条件一緒になって意味無えんじゃねえの?』
と、首を傾げる原田の傍らで、
『 ―― まあ、それが永倉君だから。ねえ?』
『そ、そうですよ、あれくらい抜けたトコが無かったら、単なる責任転嫁の、江戸被れの嫌(や)な奴になっちゃいますよ』
  こちらもまた、妙なこじつけで山南と藤堂が口を合わせていた次第を、しかして当人が知る由も無し。
  ―― 閑話休題。
  鰹のたたきを鼻先に突き付けられ、先程までの勢いは何処へやら、正面(まとも)に閉口する東男の様子に、女は笑いを堪え、
「そやかて、この辺は海に近うないよって、そのまんまでは血生臭うて、膾(なます)かたたきにでもせんことには、口にできたもんやあらしませんえ」
  ついで、お口に合わんのやったら下げましょか、と、たたきの皿に手を掛ける。永倉が慌てて制したところで、女は別の卓の客に呼ばれ、忙しく仕事に舞い戻った。
「ちぇっ、 ―― て、おい、おめえ、わざと黙ってやがったな」
  初鰹信仰崩れたり。永倉の落胆と憤慨の矛先が回ってきたのを面白がるかのように、斎藤は、まあまあと永倉の盃に酌をする。
「いいじゃないか、こいつもあんた御所望の鰹には違いない。火で炙れば皮も食えるし、何より腹を壊す心配が無いからねえ。何でも土佐辺りでは、ニンニクと一緒に食うんだと」
「げっ、信じられねえ…」
と、渋面でたたきに箸を伸ばす永倉の表情は、切り身を口に入れた後もさほど変わらない。
「…不味いたあ言わねえが…この刻み様といい盛り方といい、何か犬猫のエサ食ってるみてえだな…」
  葦簾(よしず)の上、切り目正しく精緻に並べ置かれる江戸の刺身を思い浮かべる。西では総じて、刺身の類は乱雑に、お山の如く皿に盛られる。見場より実をとる気風か、どうにも永倉には馴染めない。
  そこへいくと斎藤などは、文化風習、食も女も、東西の差異に格別の戸惑いは無いらしい。東には東の、西には西の良さがあるさ、との寛容を説く斎藤の里心の知れなさは、江戸の時分から徹底している。但し、永倉の眼には、その自由な気質が逆に、不自由で不自然なものとしか映らない。
  この度も、へえ、そんなもんかねえ、と、斎藤は永倉に倣い、件の一品を相伴に与(あずか)ると、
「 ―― 旨いよ」
  ヘソ曲げる程の事でもあるまいに、とでも言いた気な表情を浮かべている。
「へっ。終(つい)ぞ、おめえが出された物にケチ付けた事があるかよ?食い物食や旨いと言う、女と見りゃすかさず誉める、万事その調子じゃねえか」
「いや、ホントに。こいつもそうだが、この店の料理は全般いけるよ、繁盛するわけだ。あんたの馴染みかい?」
  ゆるりと視線を周囲の卓へ巡らす斎藤の所作につられ、永倉も賑わう店内を見回してみる。
  ―― 成程、二人の位置する土間から奥の座敷まで、あらかたの席が客で埋まっている。給仕に当たっているのは女二人で、愛想良く客の声に応じ無理を受けつつ、食台の間を独楽鼠さながら動き回ってはいるが、到底捌(さば)き切れないらしい。時折、襷(たすき)掛けの板前自らも表へ出ては、料理や酒を運んでいる。
「 ―― いや、歩いてて眼に付いたから入ってみただけだ。飛び込みさ」
「当たりだよ、こいつは。今度、原田達も連れて来よう」
  店の暖簾を潜る際には不承々々であった斎藤の方が、今では機嫌がすこぶる回復している。
  反して意気消沈、憮然とする永倉の気を引き立てるつもりか、あんたの嗅覚も大したもんだ、いや、恐れ入ったね、と楽し気に酒を勧めて来る。
  と、こうあからさまに下手に出られると、元々、不機嫌を持続する程の堪(こら)え性を持ち合わせない永倉は不利である。ちぇっ、仕方ねえ、こいつで良しとするか、と、たたきに手を付け、一時(いっとき)の不機嫌を詫びるように斎藤へ酌を返す。
  そうして改めて、労働に明け暮れた一日の締め括り、旨い酒と手頃な料理で我が身を労(ねぎら)う、様々な職種階層から成る客の姿を眺め遣った。

番外 郷愁の二
作品