魔法使いの弟子
シナリオ

作品



  楓や桜などの落葉広葉樹が赤く色付く現象、紅葉(こうよう)の美しさを愛(め)ではしても、人間の屍骸が赤黒く腐蝕していく過程に美を見出し得ないのは何故か。両者における変色のメカニズムに、大きな違いは無い。どちらも、物質の出入が遮断された個体内での化学反応が引き起こす、生命の幕引き。不可逆のカスケード現象。
  冬を目前に控え、葉を用済みと判断した木は、葉柄の付け根に堅い層を形成し、水や養分等、一切の物資援助を拒む。木に見捨てられ、生命線を絶たれた葉は為す術無く、最期、残された我が身の破壊に尽力する。体内の僅かな蓄えを食い潰し、(葉緑体を含む)組織細胞の一つ一つに刃を突き立て ―― 最中(さなか)、赤色色素が偶然に生成されるが、これは自滅行為からの二次的な所産。内側から迸(ほとばし)る鮮やかな紅の発色も、緑色色素の安直な引き算に過ぎない。
  最期を看取った患者の死に顔を美しいと感じたことは、過去に一度も無い。穏やかな、安らかな、まるで眠っているような、微笑みさえ浮かべているような顔、であるわけがない。死者は眠らないし、微笑まないのだから。病魔に甚振(いたぶ)られ苦痛に歪む表情、原形を留めない後遺症を残した面輪、或いは、欲得ずく、殺したくなるほど醜悪な本性丸出しの厚顔でさえ、実際には殺していないだけ、生きているだけ、まだしも美しいと思う。
  仮に、人間も死んで赤く色付くようならば、果たして美しいと感じるのだろうか。 ―― 否、あの男の最期は著しく紅葉に近いものがあったが、骸(むくろ)が如何に鮮やかな落陽色で染まろうと、生憎と美を連想した記憶は無い。

  紅黄の綾錦。冬支度の鳥の声。実を啄(つい)ばみ、枝を折り、飛び立つ羽音。
  冷たい陽射し。枯葉の擦(こす)れ。土の匂い。発酵。眩暈。
  春夏同様、秋の雑木林もまた、静寂ながら生命の気配で満ちており、五感の手綱を緩めると、つい気を散らされる。或いは土方ならば、色彩の競演、これ風雅の極みと、吟興掻き立てる格好の舞台装置を余す所無く満喫するだろう。が、人並みに自然美を認識こそすれ、追求する姿勢が装備されていない己には、生死の輪郭際立つ淡白な情景でしかない。
  不感症的神経症というものがあるとすれば ―― 種類を問わず、感情の絶対値が基準レベルに達すると、以後の進行を自動的にロックする精神構造は、成長過程で主観に偏る危険を排除し続けた結果だが、空いた容量分を客観に頼る脆弱が満たしたのでは話にならない。生存戦略としては下等、圧倒的に不利であり、主観、客観を超越した視点、中庸を具(そな)え持つ斎藤には遥か及ばない。
  或いは、この男もまた土方同様、風光明媚を好む類の人種なのだろう。平素より古物に慣れ親しむからには、たとえ異端、孤立無援の美意識でも、お飾り程度には持ち合わせている筈だ。 ―― 成程、他者の理解や共感を必要とせず、独自の世界で収束、帰結する独り善がりな趣味に凝るあたり、彼等二人は似ていなくもない。
  と、ここで山崎は思考を手動でロックした。捌かなければならない仕事は、後にも先にも山のように控えている。たかがこの程度の任務に、貴重な時間を割く寛大さは持ち合わせておらず、早々に目下の懸案を潰しに掛かる。
「刀を収めて下さい」
  背後より鋳鉄の小剣を斎藤の喉下に突き付け、動きを封じる。
  斎藤は身動(みじろ)ぎせず、視線のみを後方へ流すと微かに笑みを浮かべた。
「 ―― お久し振りです」
  この期に及んで、斎藤の声音は早くも融点へ傾いている。山崎はあっさり無視した。
「殺気以外の気に無関心なのは命取りだと、何度も言った筈ですが」
  懐が甘いのも相変わらずですね、と、瞬時に掏り取った手裏剣を殊更に持ち主の血脈に添わせ、肩に掛ける手に力を込める。
「刀を収めるように。 ―― 尾形さん、貴方もです」
  ―― 朱の木立を背景に、斎藤の真正面、間を置いて下段に構える尾形を見据える。が、二度目の通告で聞き分け良く刀を鞘に戻した斎藤とは異なり、尾形は構えを緩めるだけで、完全に戦闘態勢を解く素振りは見せない。
  やはり難関はあっちか。山崎は内心、嘆息する。
「 ―― 尾形さん」
  名を呼ばれた相手は首を傾げ、
「ふーん。それが君の最善の策ってわけかい?」
  監察部屋における日常の遣り取りをそのまま野外へ移植したよう、皮肉交じりに山崎の愚行を批評する。
「いえ、最短の策です」
「だろうね。雑だもの」
「他に思い付かなかったので」
「君にしては珍しく大胆な行動だし、その度胸は評価するよ。けど、僕がこの機会を見逃す程、お人好しだと本気で思ってるのかい?はっ、こいつは見縊(みくび)られたもんだね」
  穏やかな嘲りと共に、再び剣を構える尾形に対し、
「この距離ならば、貴方の剣先が斎藤君に到達する前に、こちらで確実に処理出来ます」
  山崎は冷やかに牽制する。
「頚動脈を切断するだけです、大した作業量ではありません」
「ああ、人の急所を心得てんのは医者も殺し屋も変わんないってこと? ―― やれやれ、君も上手く誑(たら)し込まれたもんだね。それが、その男の退路を確保する昔からの手口さ、マンネリだけどね」
  尾形の揶揄を、今度も山崎はあっさり無視した。
「いずれにしても、貴方の本懐は遂げられない。無意味です」
「…」
  ここで初めて、尾形は不快気に眼を細める。
「…武士でない君に何が解る」
「何も解りませんし、解ろうとも思いません。いい加減、その台詞も聞き飽きましたね」
「…」
「私の任務は、貴方を生きたまま屯所へ連れ帰る事です。その際、この男の生死は、こちらの関知するところではない。今、私が始末するか、先で貴方が始末するかの違いだけです」
「…」
  依然、山崎の声には淀みが無く、表情には迷いが無い。先に調子を狂わせた己の手詰まりを察し、尾形は浅く息を付く。
「…君を寄越したのは、副長の差し金かい?」
「 ―― いえ。島田さんの命令です」
  ―― これは全くの虚言ではないが、ありのままの事実を表しているとも言い難い。組織図上、島田は監察部員を動かす権限を持たないのだ。古参の監察として、上から降りて来た任務を適材適所、負担の偏重なく部員等に割り当て、時に発生する意見の食い違いを調整する役目を引き受けてはいるが、彼の性格からして、他の部員に命令を下すなど思いもよらないだろう。島田の名を場に持ち出したのは、単に土方よりも島田の方が、尾形への影響力は強いとの公算故。実際、尾形追跡の件は未だ土方の耳には届いておらず、島田は事後報告になるまで言を部内で留(と)め置く筈、と山崎は踏んでいる。この一件に斎藤が絡む以上、事態を肥大、複雑化するのは得策ではない、尾形の身を無事に確保出来ればそれで良しとする ―― これが島田の本心だろう。
『勝算は無い、相討ちもまず見込めないだろう。何しろ、斎藤さんは仇(あだ)討ちに慣れている。だが、普通の人間は慣れていない。その差は大きいよ』
  島田は沈痛な面持で、しかし感傷抜きの現実的な所見を述べ、尾形を迎えに行くよう山崎に頼んだに過ぎない。
  『命令』ではなく『依頼』。山崎は己の発した言葉の誤差に心中で苛立つ。
  一方、この正確な表現を好む山崎の、ポリシーを曲げての言動を汲んだのか、或いは、島田の名に折れたのか。
  尾形は再び息を付き、
「…なら仕方ないな。今回は島田さんと君の顔を立てることにするよ」
と、殊更に恩着せがましく白刃を収める。
  尾形が完全に引き下がるのを見届け、山崎は斎藤を解放すると、
「この件については、こちらで預からせていただきます」
  が、伊東先生の御耳に入れるかどうかは、どうぞ御随意に。御用の向きあれば後日伺うとして、今日のところはお引き取り願います、と鈍色の針剣を差し出す。
「…」
  斎藤は物言わず、左手で剣を受け取りしな、ふと山崎の指先を右手で捕らえる。凶器を握る形のままに凝(こご)った手を、夜毎、盃を操る気安さで口元に運び、縁(ふち)に上澄む表面張力を宥める体(てい)で、その甲に唇を宛がう。
「 ―― 」
  見えない酒で喉を湿らせるつもりか。手慰みが酒器から己が手に挿げ替えられた以外、この男の酒飲む仕草、盃持つ手の上下運動は、かつて見慣れたもの。記憶の轍(わだち)を映像の車輪が通過する惰性に、心が動く筈もない。
  山崎は無表情で斎藤の手を振り解(ほど)き、再度、通告した。
「 ―― 目障りです。お引き取りを」
  例えば、壊れた柵を抜け野外へ逃げ出した家畜を連れ戻すならば、発見し、無事に身を確保しさえすれば、九割方、仕事は終わったようなものだ。後は、鼻面を抑え縄を絡げ鞭を当てるかして、手段を選ばず帰路に着かせれば事は済む。が、相手が監察部内で最も気性の激しい男ときては、迷子の牛馬を扱うのとはまるで勝手が違う。寧ろ確保してからの方が厄介、今回の任の説明を受けた時点で、円満な解決、波乱無き展開を最初から期待してはいない。
  案の定、斎藤が去った後、尾形は前置きな無く、山崎の胸倉を掴み、力任せに鳩尾を拳で殴った。
「…」
  山崎は辛うじて呻きを押し殺すのが限界、その場に崩折れる。
  元より、行き場を失った刺し違えの余波、遣り場の無い怒りの何割かでも、引き受ける覚悟は出来ていた。いっそ千載一遇の好機を潰した男への腹いせとしては、まだ生温い衝動かもしれない。
  尾形の一撃は狙い過(あやま)たず山崎の内臓を抉(えぐ)り、胃の内容物を引力に逆らわせる。結果、腹部同様に口元を手で押さえる山崎を、
「我慢しないで、吐いちゃえば」
  尾形は蔑む口調で見下すと逆の意を仄めかし、追い討ちを掛けた。
「…」
  山崎は眼を閉じて身の震えを強制的に鎮め、逆流する嘔吐物を甘んじて胃へ送り戻す。腹部の痛みは奇妙な方向へ捻じ曲げられ、増幅した眩暈が頭痛に変わる。気を失うという選択も魅力的ではあったが、惜しくも尾形を屯所へ連れ帰る責務が、意識を地上へ繋ぎ止めていた。
「わざわざ顔は外したんだ、感謝して欲しいくらいだね」
  膝を付き地を捉え、気息の乱れと格闘する山崎に構わず、尾形は言い捨てる。洛外探査における変装の際、特徴付けとなる顔面の傷は隠すのが常法。山崎同様に別人を装う機会が多く、その(傷を隠す)一手間の煩わしさを知り抜いている尾形なりの配慮らしい。
  尾形は山崎から少しく離れ、色付きの良い楓の一枝を選んで手折る。そのまま手近な倒木に腰掛けると、枝を手の中でくるくると回しながら、暫時、山崎の復活を待った。
  ―― 彼等の四囲を取り巻く木々の多くは葉が落とされ、遮る物無い林の隅々にまで秋の日が落ち込む。御陰で色彩の豊かさとは反比例して陰影の手数は乏しく、澄んだ空気と相俟って光景の遠近を狂わす。まるで芝居の書割のような明快さ。
  周囲に視線を向けても、幹また幹が重なり合い、見通しが良過ぎて焦点が合わない。尾形は手の中の楓と、数歩先で蹲(うずくま)る山崎とを観賞して時間を潰す。
  やがて、己の話し相手が務まる程度には、山崎の気が回復したのを見咎め、尾形は言った。
「 ―― 斎藤君を殺る気なんて、最初から無かったんだろう?」
  でなければ、ああも易々と斎藤の背後に回れる筈がなく、殺気以外の気に無関心、との山崎の言と著しく矛盾する。獲物を仕留め損なった敗北感と、感情の起伏を均(なら)し終えた虚無感とが、尾形の発声を平板にしている。
「…いえ」
  尾形の尤もな指摘を否定し、山崎は漸く立ち上がると、着物に纏う土や枯草を払う。
「…先程言った通りです。…私にとって斎藤君の生死は二の次、それより、貴方に死なれる方が困る…」
  一旦、山崎は苦しげに息を継いだ。が、尾形は容赦無く、一瞥で先を促す。
「で?」
「…尾形さんの行動如何では、やはり彼を殺す事になっていたでしょうね」
「ふーん。やれやれ、天秤に掛けられたのかな、僕は…それに、殺気が無くても殺せるって訳だ。器用だね」
「板前が魚を捌くのに、いちいち殺気を発動させたりはしないでしょう」
  腑分けに慣れた医者も同じようなものです、と傍らの木の幹に背を預け、腕を組む。
「さあね…心優しい板前さんとか存るかも。まな板の上の魚と眼が合っちゃって、どうにも平常の心持ちでは包丁を振り下ろせない、なんてね」
「それは単に修行不足でしょう。或いは、最初から板前としての適性が無いか」
  会話が馬鹿々々しい流れに捲かれて行くのを引き戻そうとはせず、山崎は改めて尾形の様子を伺う。
  楓の枝を傾く直前の日に翳(かざ)し、葉を透過する光の角度を微妙に変えつつ、眩しげに見上げている。照り映える葉の紅を空の蒼(あお)で引き立てているのか、又は蒼を実感する為だけに紅を持ち出したのか。尾形の視線の在処が、山崎には判らない。
「 ―― 今後、彼はどう出るんだろう?」
 不意に、何処(いずこ)かへ放った視線を回収しないまま、尾形は呟いた。
「…?」
「斎藤君。一体、どの筋書きで動くつもりなんだろうね」
  ―― 伊東一派と共に隊を離脱した斎藤は、出演依頼が引きも切らない、流行りの役者のようなもの。彼の手元には、興行主が各々好き勝手に持ち込む脚本が溜まる一方だが、どの本が採用されるかは人知れず斎藤の胸の内、幕が上がるまでは誰にも分からない。
「 ―― 現状は、間諜として伊東先生方と行動を共にし動静を探り、我々監察を介さずに直接、副長へ有益な情報を提供している」
「それは数ある筋書きの一つでしかないよ」
  模範解答を諳(そら)んじる山崎に対し、分かってるくせに、恍(とぼ)けるんじゃないよ、と尾形は静かに苦笑する。
「監察部の手法に通じた篠原さん達があちらに存る以上、下手に僕等を関わらせない方が無難に決まっている、のは建前。斎藤君自身が、僕等を諜報前線から締め出したがっているだけだとしたら?」
「 ―― 目的は」
「さあね。大方、目付け職に復帰しての任務遂行に、僕等の存在が邪魔なんだろうさ」
「それが、尾形さんの考える筋書きですか」
「でもないよ。島田さんの予想も大筋、僕のと違わない」
「…」
「間者の話、斎藤君には渡りに船だったんだろうね。隊に所属したままだと、どうしても行動範囲が限定されて自由度が低いし…まあでも彼は、今までも好き勝手やってきた方だと思うけど。隊に留まるメリットが無くなった可能性もある。君がどれくらい、斎藤君の事を知っているかは知らないけど」
「少なくとも、元目付けの貴方よりは知らないでしょう」
「まあ、そうだろうね。だが、自由の獲得には、それなりのリスクもある。副長も抜け目が無いからね、いざって時には、斎藤君を伊東一味と見なして斬り捨てるカードは手元にちゃんと残してるし、それは伊東さんも同じさ」
  最終的に、そのまま高台寺一党として伊東の筋書きに乗るか、隊の間者として土方の筋書きに乗るか、或いは両者共に裏切るか。だが、斎藤が向こう岸より何らの狼煙も上げず、先の展開が読めない以上はこちらも動き様が無い、と尾形は舌打つ。
「何しろ、ピストルが鳴ってから、慌ててスタートラインを探すようなものだからね。分が悪過ぎるよ」
「だからといって、フライングして良い理由にはなりません」
「やれ、君も言うようになったもんだね。だって折角、島田さんが用意してくれた筋書きだ、最大限に利用しない手は無いじゃないか」
「島田さん? ―― 表向き、斎藤君が副長の密命を帯びて隊を離れた経緯は、目下、島田さんと私にしか知らされていない、という事ですか」
「そう。だから、何も『知らされていない』僕には、少しだけ自由に動く余地が残されている」
  島田さんの最大限の譲歩さ、と独り言のように呟き、尾形は手中の枝から一枚ずつ葉を千切り、地面へ落としていく。血溜りが足下を濡らし拡がる様に似ている、と山崎は思う。
「…」
  尾形の自由とは、斎藤を仇(かたき)として自らの手で討ち取る自由。その上、土方の思惑の流れを汲まない島田の筋書きは、尾形のみならず、伊東方に付いた篠原や服部にまで及んでいるのかもしれない。結局のところ、島田は監察の側に立つ男だ、特に尾形同様、斎藤の命を狙う服部に便宜を図らないとも限らない。但し、土方の手前、隊が不利益を被らない程度にタイミングは選ぶだろう、今回のように。
「ところで、君はどうなんだい?」
  最後の一葉を千切り落とし、裸の枝の先端をぴたりと山崎に向けると、尾形は言った。
「君が果たしてどういう筋書きを望んでいるのか、興味があるね」
  山崎は腕を組んだまま、僅かに肩を竦める。
「私は副長の筋書き通りに動く、只それだけです」
「筋書きの内容が、君の全く望まない、不本意なものだとしても?」
「望む望まないに関わらず。それが任務というものでしょう」
「 ―― あーあ、何だかねえ」
  そこが、決定的に君と僕が相容れない点さ、と尾形は枝先で中空に意味不明の図形を描く。
「君のボスは副長だけど、僕のボスは島田さんだからね。どうにもスタンスがずれる」
「? ―― ですが、島田さんのボスは副長ですから、結局、同じ事では?」
「はは、その冗談、面白くないよ。それに…そうまでして、信じる価値があるものなのかい?」
  尾形の問いに、山崎は首を横に振る。
「さあ。 ―― 一旦、信じると決めてしまえば、価値について検討する余地は無い。後戻りも出来ない、修正も利かない、不自由だが ―― 生きる事の煩わしさは少なからず軽減される。強いて価値を見出そうとすれば、その程度ですね」
  たとえそれが、人生を棒に振る出会いだったとしても。
「…何だかそれって、楽な生き方に聞こえるけど」
「如何にも。私は本来、無精者ですから」
「知ってるよ、勿論」
  長い付き合いだからね、と愉快そうに笑いながら、尾形は枝先で、ちょいちょいと山崎を手招く。
  そうして。
「…?」
  さしたる疑いも抱かず近付き、正面に立つ山崎の手をふいと掴むと、まるで小動物が餌の状態を確かめるようにくんくんと匂いを嗅ぎ、舌先で手の甲を舐めた。
「何だ、美味しいのかと思った」
「…」
  山崎は何か言いたくて、言おうとして、何を言うか忘れてしまった。仕方なく、こめかみに指を当て、蘇る頭痛を遣り過ごそうとする。
「…貴方って人は…」
「つまんないなあ。てっきり甘露の味でもするかと期待したんだけど。ねえ?」
「…さあ。 ―― とにかく、いい加減、早く屯所へ戻りましょう。島田さんも心配してますから」
「やーい、引っ掛かった」
と、尾形は上目遣いに御満悦の表情、ひょいと身軽に立ち上がる。
「?」
「その一言が聞きたかったのにさ。馬鹿だねえ、君も。島田さんが心配してるから一緒に帰ろう、って何で最初から言わなかったんだい?そしたら僕も斎藤君と同じく、さっさと刀を収めて引き下がったのに」
  唖然と立ち尽くす山崎を置き去り、島田への土産用、先程より数段見事な枝振りの楓を吟味し手折ると、尾形は既に歩き始めている。
「たまには年長者の意見にも耳を傾けたって罰は当たらないよ。全く、無精者のくせに、好き好んで事をややこしくしてるんだからなあ、君は」
「…」
  振り向きざま、尾形の朗らかな声が秋の林に響く。
「何、至って単純な真理さ ―― 賢(さか)しらに溺れるな、只、正直であれ ―― それが最善の策で、最短の策ってこと」
  ―― 山崎は悠々と帰路に着く尾形の後姿と、その肩で揺れる紅葉を眺めて溜息を付く。どうやら、まだまだ修行が足りないらしい。


作品